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死ぬことと見つけたり

久々に時代小説を読んだ。隆慶一郎先生の「死ぬことと見つけたり」。

面白い!と単純に片付けられる面白さじゃなかった。男たちの生き様を通して、自分のこれからの生き方さえ考えさせられる様な、痛快な物語の中に深い感慨を抱かせる、そんな作品だった。

原哲夫さんの漫画が好きな人は、ほとんどが気にいるんじゃなかろうか。なんだか作品の質が、とてもよく似ているのだ。老若男女を巧みに書き分け、力強さ・潔さ・美しさ・可憐さ・狡猾さ・したたかさをうまく描いている。
どちらの巨匠も、その読後感は清々しさを感じる。血生臭いシーンがあってもなお、そう思わせる作風なのだ。

花の慶次で、原哲夫さんは隆先生に惚れ込んだと書かれていたけど、なる程すごくよく分かる。根っこが似ているのだな、この二人は。だからこそか。原哲夫さんは隆先生こそが自分の目指す先にいる人だと感じたのかもしれない。

原哲夫さんは、漢の力強さを描きながら、女性の美しさやしなやかさも見事に表現できる素晴らしい感性の持ち主だ。そして漫画家であるところから、その表現は画力によってなし得ている。
一方、隆先生はといえば、漢の力強さ、優しさ、哀しみはもとより、女性の可憐さ、淑やかさ、強さを文章力によって表現し切っているのだ。男は物事を目で見ようとするから、原哲夫さんの漫画は「カッコイイ男と美女」というのがわかりやすい。でも、隆先生は文章でそれをやる。しかも、可愛い女性の描き方は原作品以上と思わせる程だ。

これは本当に凄いことだと思う。読み手に「想像させる」のが、バツグンにうまいのだな、きっと。

好きな作家の一人である茅田さんも巧いと思うけど、物語の厚みからか格の違いの様なものも感じる。やはりラノべとは違うと言うことなのだろうか。北村薫さんは同等の様な感覚だ。
ただ楽しませる事を目的としているか、作家が人生から学んだなにかを物語のテーマに据えて伝えようとしているか。そういう違いの様な気もする。

作品についても書いておこう。
斎藤杢之助の痛快さは前田慶次のそれによく似ているというか、おそらく慶次の中に杢之助が盛り込まれているのだろう。
言葉ではなく行動で示すところ、己の勘を信じて疑わず、野生的で強靭な肉体。単純明快に「強い」。男として、憧れないはずがない魅力に溢れている。慶次と違うのは、女性に対する清廉潔白さだろうか。ただ、お勇一筋でありながら愛への忍ぶ恋を隠しているところは、慶次のおまつ殿への忍ぶ恋は似ている。

花の慶次に受け継がれたらしきものはいくつもあるけど、他にも中野求馬は奥村助右衛門だろうし、牛島萬右衛門と大猿は岩兵衛と捨丸。どちらの作品もファンでもある者としては、思わず嬉しくなってしまう。

作中、特にグッときたのは杢之助の娘の静香のエピソード。男顔負けの凄腕の剣士として成長していることを中心に描きながら、女の子の可愛さを本当にうまく描いている。
果し合いの場での「白い蝶」の場面は、強さと可憐さ、好きな男への想いの抱く少女の可愛さを見事なまでに表していて、痺れた。

素晴らしい物語をありがとうございました。


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